『ねこ』

『あ?……今なんか聞こえなかったか?』
『…いや…なにも…?』
『おっかしいなあ…』
『おかしいのはてめえの耳じゃねえのか?』

休日の昼下がり、オレの家に訪問して来た冬獅郎。
じめじめした部屋の空気を入れ替えがてら、窓を全開にして梅雨の中休みの気持ちのよい気候を楽しんでいた。
だが、部屋に来た時から冬獅郎の様子が少しおかしい。
ベッドの隅に膝を抱えて座り、オレが話かけても適当に返事をするだけだった。
こんなに気持ちのいい天気で、外に出て少し歩けば汗ばみそうな気温なのに、グレーの長袖のパーカーを着込んで、更にファスナーをしっかり首元まであげて、腹でも痛いのか、何度か自分の腹の辺りを擦っている。
それに、いつもはもっと我が儘に『あれが飲みたい』だの、『それが食いたい』だのと言ってくるのだが、今日はおとなしい。

冬獅郎のそんな様子に、オレはすぐに具合が悪いのかと聞いたが、違うと速攻で否定された。
確かに顔色は悪くないし、風邪声というわけでも無い。
まぁいいか、とオレは考えるのをやめた。
目の前の宿題を早く片付けて、冬獅郎と一緒に過ごしたかったし、こんないい天気なのだから昼間のうちに外に出て動き回りたい。
宿題なんて夜やればいいと言ったオレだったが、冬獅郎に『それ終わらないうちは何処にも行かない』と言われ、しぶしぶ机に向かっていた。
しばらくして、なんだかくぐもった泣き声のような、うなり声のようなものが聞こえた気がして振り返ったが、目の前にはベッドに座って壁に寄りかかった冬獅郎がいるだけで、その冬獅郎はといえば、オレの部屋の漫画をつまらなそうにペラペラとめくっている。

『気のせいか……』

冬獅郎にはなにも聞こえていないようだったし、空耳か。
再び机に向かい始めたオレだったが、ほどなくしてまたしても声が聞こえた。

今度ははっきり、『にゃー』と聞こえた。

思いっきり振り返ると、そこには少し青ざめた冬獅郎。
着ているパーカーの腹の辺りを押さえているが、そのパーカーがもぞもぞ動いている。

『冬獅郎……何隠してんだよ……』
『か…かくしてねーよ…』
『バレバレな嘘つくなよ…』
『………』

オレは椅子から降りて冬獅郎の側に詰め寄ると、顔をぐいっと近づけて強めの口調でいうと、冬獅郎は観念したようにうなだれた。
その間も『なー』とか『にゃぁ』とか、可愛らしい鳴き声が冬獅郎の腹の辺りから聞こえている。

『ほら、出せよ…。ったく、何持って来たんだよ』

何を隠しているかは大体の予想はついているが、冬獅郎の普段の性格からして、まさか冬獅郎が…と想像が追いつかずにオレは多少驚いていた。

『にゃーん』

冬獅郎がパーカーのファスナーを降ろすと、今まで狭くて暗い空間に閉じ込められていたちいさな生き物がひょっこり顔を出した。
ちいさなちいさな茶色のトラネコ。
まぶしそうに瞬きしながら、にーにーと小さな口を開けて必死に鳴いている。
前足をパーカーから出し、後ろ足を一生懸命動かして、ベッドの上に降りようとしている。

『どうしたんだよ…こいつ…』
『……ここに来る途中で見つけて……こんなに小さいから、近くに親猫がいるだろうと思って…探したんだが……』
『いなかったのか?』
『いや…』

歯切れの悪い冬獅郎の物言いに、途中でオレは口を挟んだ。
すると、一層眉根を寄せた冬獅郎が、少し悲しそうな表情になり、口を開いた。

『すぐそばの道路で…車に轢かれてた……』
『…え……そっか…それで連れて来たんだな…』
『……すまん…』
『でも…どうすんだよ…お前飼うのか?』

思った以上に小さな子猫だった。
パーカーの中から脱出し、冬獅郎に抱かれて気持ち良さそうに目を閉じている。
オレの片手に乗っかってしまうくらいの大きさしかない。
少し力を入れて握っただけでつぶれてしまいそうだ。

その子猫の頭を何度も撫でながら、冬獅郎は残念そうにつぶやく。

『オレ…忙しいし…飼う事はできねぇ…。けど…誰か探そうと思ってるから』
『でも…そいつを尸魂界に連れて行く訳には行かねえだろ?こっちで探さなきゃ…』
『……』

冬獅郎の人間界の知り合いは極少だから、見つかる可能性は低い。
オレの友達や知り合い、もしくは妹や親父を頼るしかないだろう。

それを伝えると、冬獅郎はちいさく『サンキュ』とつぶやいた。
本当に冬獅郎は優しいんだな…と改めて思う。

子猫は自分の運命を知ってか知らずか、冬獅郎の手からぴょんっと飛び降りると、ベッドの上を走り回り始めた。
柔らかい毛布の上をたどたどしくよじ登ったり、転がり降りて遊んでいる。
冬獅郎の足に纏わりついたり、オレが指を軽く振ってやれば飛びついて来て、とても可愛らしい。
だが、しばらくすると冬獅郎とオレを見上げ『にゃあにゃあ』と何かを訴えるように鳴きだした。

『どうした?』

冬獅郎は子猫を抱き上げ、顔を覗き込む。
子猫は一層大きな声で鳴き出した。

『なー、そいつ腹減ってんじゃねーの?ずいぶん鳴いてるぜ?』
『あ…あぁ…そうかもな…』
『なんか持って来てやるよ!ちと待ってろ』
『悪い……』
『いいって』

オレは冬獅郎の腕のなかで鳴き続けている子猫に、何か餌を…とキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開けると、飲み物の並んだ棚からミルクを選び、小さめの皿へ注ぐ。
あまり冷たすぎるのもよくないのかな?なんて思ったので、レンジへ入れる。
ミルクを温めている間に、子猫でも食べられそうなものを探すが、見当たらなかった。
ペットなんて飼ったことはないから、どんなもんがいいのかなんてオレには分からない。
仕方ないので、ミルクだけあげて、その他は後で冬獅郎と買いに行こう。

部屋へ戻ると、小さな子猫とオレの子猫がじゃれ合っていた。
……なんだか分からないが、胸がもやもやする。
子猫に嫉妬しても仕方ない。
小さく深呼吸したオレは、努めて明るい声を出し、ミルクの皿を差し出した。

『冬獅郎!ほらミルク持って来たぞ』
『あ…ほら、お前のメシだぞ?』
『なー』

皿を床においてやると、冬獅郎の足下で遊んでいた子猫が、ミルクの匂いに誘われ、すぐに駆け寄って来た。
そして、小さな舌を器用に使って、ミルクを飲み始めた。
ものすごい勢いで減るミルクにオレも冬獅郎も見入ってしまった。

『すげー腹減ってたんだな…』
『……うん』

子猫を見つめる冬獅郎の目はやさしい。

あっという間に皿を空っぽにし、満腹になった子猫は、重くなったお腹でよたよたになりながら、また冬獅郎の元へ戻る。
冬獅郎の膝によじ上ると顔や身体の毛繕いを始めた。

『かわいいなー…、ってかすっげちっせえ…』
『…こんなに小さいのに一人ぼっちだな…』

冬獅郎が、なんだか寂しい事をつぶやいた。

冬獅郎が子猫の背を撫でている。
それが気持ちが良いのか、子猫の目がとろんとしてきて、小さな身体を丸めて眠ってしまった。
冬獅郎は、子猫が寝てからもその小さな背をずっと撫で続けている。

『良い飼い主探そうな!』
『あぁ…お前には迷惑をかけるな…』
『ばあか…気にすんなよ』

冬獅郎の頭をぽんと叩き笑いかけてやる。
少し冬獅郎の顔が明るくなった。

しかし、このままこの子猫を置いていって大丈夫だろうか…。
せっかく気持ち良さそうに寝ているのに、外に連れ出すのも可哀想だ。

『なぁ…こいつのエサ買いに行く間、妹に預けてくるよ』
『…いーよ…エサは一護が買ってくればいーだろ…』
『えー…オレ冬獅郎と出かけんの、結構楽しみにしてたのに…』
『うっせーな…いいから、いってこいよ』

冬獅郎は、もうオレの方を見もせずに子猫の寝顔ばかり見ている。
その表情は、さっきからの言動とは裏腹にとても柔らかく、うっすら微笑んでいるようにも見えて、オレは少しだけ子猫に嫉妬した。
オレは仕方なく一人で買い物に出かける事にした。
向かう先はペットショップ。
猫缶を求めて。

気分は愛する妻と赤ん坊を残して仕事に行かなければならない夫と行ったところだろうか。
ついでに冬獅郎の好きなおやつも買いだめしておこう。